エモーショナルなヒットでオーディエンスを
魅了するPoppin’ダンサーCGEO
彼の情熱を後押しする原体験とは?

CGEO

 category:Dancer

 style:Poppin’

新しい世界が待っている
探し求めていた何かに出会えた

1
2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 7

新しい世界が待っている
探し求めていた何かに出会えた

ダンスを始めたのは高校1年の終わり。当時は運動神経が良い訳でもない、ダンス以外のカルチャーに触れていたこともない、バイクが好きでちょっと元気のいい少年だった。 そんな彼が現チームメイトtemporalyのSOとTA-NI-の誘いでダンスの世界に飛び込むことになる。
当時の彼は“自分がダンスなんてできるのか”と不安もありつつ、新しい世界が待っているような、探し求めていた何かに出会えたそんな感覚だった。

1999年2月地元沖縄で初めて開催された高校生限定ショーケースコンテストに出場するためtemporalyを結成。彼がダンスを始めてわずか1ヶ月後にステージに立つことになった。ダンスを始めた当時、師匠であるYUZURUさん(HOMELAND OKINAWA)が那覇で始めたダンスレッスンにtemporalyで通い詰め、夜な夜なストリートで練習を重ねていた。
通っていたレッスン会場は今でいう設備のある“ダンススタジオ”ではなく、間借りスタジオだったが後に日本トップクラスとなるダンサーからレベルの高いレクチャーを受けることができた。スキルだけではなく、ダンサーとしてのアティチュード、ストイックな姿勢、ダンサーとして成功するために必要なバイタリティやチャレンジ精神、、、、
当時の沖縄にはストリートダンスシーンはほとんどなく、アグレッシブに活動するダンサーが身近にいるのは恵まれた環境だったと言えるだろう。 彼のみならずtemporalyがダンスに人生をかけ、成功したいと夢を描くのは自然なことだったかもしれない。

人生をかけて夢中に
なれるものに出会えた瞬間

人生をかけて夢中に
なれるものに出会えた瞬間

彼がダンスを始めて数年経ったころポップダンスのオリジネーターであるElectric BoogaloosのSkeeter RabbitとPopin Peteをゲストに招いたイベントに関わる機会があった。
リハを見学していた彼は、憧れのダンサーたちを目の前にし、人生で初めてダンスに感動し、涙した。この日を境に18歳だった彼は、“こんなダンサーになりたい。ダンスで人を感動させられるようになりたい。”と強く思い、今なおその衝撃を忘れることはないという。

沖縄を出て三重県へ出稼ぎへ行った後、当時のチームメンバーと大阪へ移住した。その頃からようやくダンスで生活できるようになり、コンテストやバトルでのタイトル獲得、Japan Dance Delight Magazineへの表紙出演などダンサーとして掲げていた目標を着々と達成していった。ストイックでひたむきな努力が実り、見事にトップダンサーの地位へと駆け上がったのだ。
関西で活躍をみせた後、プライベートの理由や東京でチャンレンジしたい気持ちもあり、関東へ移住。現在はレッスンをメインとして、バトルやコンテストでの出場、イベント主宰と活動の幅を広げている。

1
2
  • 3
  • 4

ダンスからひろがる世界の
先に見えているもの

1
  • 2
  • 3

ダンスからひろがる世界の
先に見えているもの

彼がダンサーとして大切にしているのはダンスに感情をこめること。ダンスを楽しむということ。ストイックな努力で培ったスキルと彼の原体験からくるダンスに対する感情が掛け算された時、どんな瞬間よりも彼が彼らしく輝いているのではないだろうか。
これまで沖縄から関西、関東への移住、日本を飛び出し世界を相手にチャンレンジを重ねてきた。長いキャリアを経て思うことは、何かのためじゃなく自分のためのダンスを大切にしたいということ。ダンスを、“楽しい、かっこいい、”とピュアに感じ、夢中で駆け抜けていたあの頃のあの感情を再び思い出した今。ダンスをすること、ダンスを通してひろがる未来をイメージすることが楽しくて仕方ないと語ってくれた。

今後はダンスを軸に地元沖縄で新たなチャレンジをしていきたいと語る。ダンスから人生を学び、ダンスに心打たれ、とことん向き合ってきた彼のアツいこれからに注目だ。